映画の1シーンで部屋の机の上に湯気の立つコーヒーカップが置いてあったとします。
次のカットで男がこのカップを手にします。
で、更に次のカットで男が空のカップを机に置くシーンが映されたとします。
男がコーヒーを飲むシーンは映しだされませんでしたが、観客は前後のシーンの整合から、男がコーヒーを飲んだのだと思います。
こういうのをモザイク理論と言うのだそうです。
でも、男がコーヒーを窓から捨てたとしても、この3カットの整合は全く崩れません。
にもかかわらず、コーヒーは飲まれたことになるわけです。
このモザイク理論を逆手にとった演出もあるのですが、(例えばこの後に庭でコーヒーを頭からかぶった別の男のシーンが続いて、観客があっと言うとか。)まあややこしいのでそれはおいておきましょう。
このように、映像作家と観客の間には、事前のお約束が成立しています。
実際は男は長々とコーヒーを飲むかもしれませんが、(男が猫舌だったりしたら、かなり時間かかっちゃうでしょう)演出上の都合などで、コーヒーを飲むシーンを省略したりするのです。例えばカットを短く繋ぐことによって、映画のテンポは高まります。
でもこの効果は、このカット割りで観客が男がコーヒーを飲んだと想像してくれることが前提になっているのです。
ところが、カットの順番を入れ替えると、観客は男がコーヒーを飲んだとは思ってくれません。観客を納得させる手続きが踏まれていて初めて効果を出すのです。
えーっとそこで、本題なのですが、これって我がSLGでも同じではないかと。
デザインやシステムやコンポーネントや演出の都合上、省略しているところは、プレイヤーが想像力で補って、史実や事象が連続的に再現されたことになる。
また、アナログゲームシステムの都合上、連続した時間を○○フェイズや××セグメントに切り分けているんで、これを一連の事象であると認識してもらうことに、プレイヤーの想像力を借りています。
このようにSLGはプレイヤー(の想像力)が介在して初めて、一連のものになり得るのだと思うのです。
ですから、プレイヤーをそのように誘導したり、納得させられないといけない。
先の例でいえば、正しい順序でカットを映さないと、観客に男がコーヒーを飲んだと思って貰えないように。
だからプレイヤー(の想像力)をかきたてるよう配慮したゲームというのが、良いゲームなんだって思うんです。帝海もそうありたいものです。