最近、シミュレーションゲームにおいて、科学的とは何かとか、文系の理屈も大事なんて言ってたものですから、では科学的ってどういうことなのか、まじめに考えてみました。
でも結局よくわからん(笑)ので、昔同じことを考えた方が居ないかと思っていたら、たまたま職場で読んだ会報にこんなことが載ってました。
デカルトとニュートンは、科学的であることの条件は以下の4つと言ったそうです。
1:科学的な方法論とは要素還元的アプローチに基づいたものでなければならない。
2:この世は機械の集合体であり、全ての現象は方程式で記述でき、予測可能である。
3:時間と空間はそれぞれ独立した概念であり、客観的な基準として全てに適用可能である。
4:科学はその扱う領域を測定可能なもの(物質やエネルギー)に限定する。従って、心や精神といった測定不可能なものは除外する。
デカルトさんは自著の「方法序説」で更にこうも仰っているそうです。
「物質の本質を究める際には、それを構成している最小単位にまで分解(要素還元)し、その最小単位の本質を解明し、それらひとつひとつを再び積み上げて組み立てる。そうやってもとの物質の本質を理解するのが、科学的なアプローチである。」
私たちが無意識に科学的という言葉を使うとき、概ねニュートンやデカルトの言ってるイメージを頭に描いているのではないでしょうか。少なくとも私はそうでした。
しかしながら、実は現在はこの考え方には限界があると思われているそうです。
読んだ会報の続きには「世界は複雑化すると新しい性質を獲得する。それを分解する毎に、獲得された新しい性質は都度失われる。」という考え方が主流になりつつあると書いてました。
物質の本質を知るにあたっては、あえて要素毎に分解還元せず、全体像から追い求めることも大事というわけです。要素が結合した時にはじめて生まれるものもあって、分解と再構成というものの考えだけでは、複雑な世の中って理解できないよというのが、今の科学というわけですね。
もう少し砕いた例で言えば、ニュートンやデカルトは「森」に科学的にアプローチするには、そこに生えている植物や生息している生物や土、空気といった単位に分解すれば理解できると言っているわけです。それに対し、森を森として把握するアプローチもなければ、森の本質を掴んだことにはならないということです。
昔の人は上手いことをいいました。まさに「木を見て森を見ず」は良くないというわけです。
そこで、ようやく私たちのSLGの世界の話です。もう概ね察しがついたと思いますけど、これまでの話は、そのまんま例の帰納法、演繹法の話にそっくり移し替えられるわけです。
演繹法は、物理法則を積み上げて全体像を作り上げるものだとすれば、それは17世紀のニュートンやデカルトの時代の科学でしかないのであって、今流の科学に照らせば不完全なわけです。細かいものを積み上げただけでは、要素が複合することで生み出された筈のものは最初から欠如しているということですね。
では、ニュートンやデカルトの分析手法は時代遅れで全否定されているのかといえば、そんなことは決してないわけです。どこの学校でも化学で元素の周期表をちゃんと教えます。そもそも分解されたときに喪失されたものは何かということを掴むためには、まず分解そのものがキチンと出来ないとダメなわけで。そこに基礎があることは動かせない事実なのです。
まあ、難しいことはさておき、私がいいたいのは、どこの世界でも、どんなところでも、案外みなさん同じようなことを考えているんだなあってことです。